昭和41年07月30日 朝の御理解



 昨日の朝、お粗末という事について頂きましたです。昨日は一日その、お粗末という事に取り組ませて頂いた。昨夜も、やはりお粗末という事についての、まぁ仕上げといったような御理解でした。神様が求めたもう修行をおろそかにするという事が、まぁお粗末の第一でございましょうが。折角、まぁあの神様から求めておられる修行をです、いわば苦労としたら、もうお粗末。修行とするとこからおかげ。それは丁度、伊勢海老の頭のあるのと無いのぐらいに違う。値打ちが違う。
 例えば伊勢海老、なるほど頭は、その食べられるところでもないですけれども、やはり頭が無かったら、もう伊勢海老としての値打ちがない。ですから、神様が求めて下さる修行を、本当に修行として、元気な心で受けて行くというような事が、お粗末である、お粗末をつくらない事になる。で、必ずそのお粗末と続いておるのが、ご無礼である。今朝もその、ご無礼という事についてから、頂いたんですけれども、皆さんも一つ色々練って頂きたいと思う。
 その事について神様にお伺いさせて頂いたら、「松の木と杉の木」を頂いた。それがいうならご無礼なんです。ならご無礼には沢山ございますですね。例えば昔は殿様、侍、町人といったようにその、同じ人間でありながら、その位の高い人低い人、例えばなら殿様が、通っておる、んなら一つの行列なら行列を横切ったりすることなど、この無礼者としてその、お手討ちになるといったようなひどい事であったわけ。ね。
 しかもそういうような事から、成程それはまぁいうならば人間同士が決めた事でございますから、本当に言うたらそんなにご無礼じゃない。例えばなら民主主義の今日にいたっては、そういう事はないですからね。殿様よりか天皇陛下の場合にしても、例えばその行列を横切ったからと言うて、御手討なんかはされはしません。ですから人間の決めたのはどうでもそういうような、まぁ絶対のものは、神様と氏子の事ですよね。
 これはもう人間、人間と人間じゃないですから、やはりこれはもう絶対のものですけれども。それからまぁ、あぁして考える事によって、ご無礼という事が分かります。ね、だからご無礼が無いように、ご無礼が無いようにとその、心掛けさせてもらわなければならんのですけれど。特にその、ご無礼になるという事はですね、松の木と杉の木なんです。いう、その・・・・・。
 松の木というのは、私はこの待つ心だとこう思う。松の木ですから。杉の木というのは、過去の事、過ぎ去った事。過ぎ去った事を、例えば苦にしたり。不平不足を言うたりする心が、私はご無礼だとこう思うですね。あの事のおかげで、というようにです、あの事のおかげとして、その事を生かす心が、だからご無礼の反対の、心掛けという事になるわけです。確かにそれはご無礼でございますですね。
 それからその、待つ心というのは、おかげを待つという事。あそこが、あげんとば持って来だんせんじゃろうかと思うて、進物ば待つような心は、これはご無礼ですよね。私共が、段々手厚く信心させてさえ頂いておればです、確かに一つの確信というもの、信念というものは出来てまいります。私がおかげを頂かんはずがないという、信念なのです。けれどもそのおかげはです、私共がどういうおかげか分からんのです。
 又何時か分からんのです。一番適当な時期に、一番私共が夢にも思わなかったようなおかげ、というものがです、直接に下さる事を私共は確信する。これはおかげを待つというても、その待つの内に入らんと思うですね。どうでも、そういう、いうなら確信が出来れる、信念の持てれる信心もなんもせずに、早くおかげが頂きたい、早くおかげが頂きたい、信心もいうなら出来ずに。
 神様が今月今日で頼めと、おかげは和賀心にありと仰るのに、今月今日で頼むこと、頼みよるけれども、和賀心になることは頼まずに、そしておかげの早急ぎばかりするというような事は、これはご無礼だと思う。そこん所を、一つお互いが分からせてもらう、ていかなきゃならん。信心によって一つの確信が持てる。信念が頂けれる。そういう私は信心をさせて頂いて、そしておかげはあなたに任せてある、という信心。
 御無礼になるという事。やろうともやらんとも仰っていないものを神様は持ってござる。それを下さい下さいという事は御無礼だという事になる。それを頂けれる心を作ることは御無礼じゃない。同時に過ぎ去った事を生かして行く心が信心であると。過ぎ去ったことを苦にしたりその事を、あんな事がなかったならとかあんな事のおかげでとか、というようなその過去の事をいわば生かすのではなくて過去の事に不平不足を言う。
 そういうような事が、ご無礼だという事を、まぁ教えて下さっておるのじゃなかろうかと思う。皆さんもこういうような事がご無礼になりゃせんじゃろうか、というようにです一つ工夫して頂かにゃかならんけれども、その一番大きいご無礼というのは、松の木と杉の木だという事でございますから、その松の木、杉の木とても、こりゃ私が、まぁ今すぐ頂いてから感じた事でございますから。
 皆さんもその松の木、杉の木という事から良く頂かれてみたら、まだ、いよいよ、ご無礼というような事がですね、よいご無礼というのか、、ご無礼とはこういうような事をご無礼と言うんだろうというような事が、分かられるかもしれません。そこで私共がです、いわゆる松の木杉の木になっておらんか。反省させて頂いて、いよいよ過去一切を生かして行けれるだけの信心。これからの事を見てもです、ね、
 神様がです、おかげを下さるんだと、下さらんはずがないと。それはどういうおかげでありましても、そのおかげを頂きもらさんで済むような心構えを作るという事こそ、これはおかげであって、そういう心も出来ずに、神様を信じる力も持たずに、そして私共がおかげ急ぎをするというような事は、これはご無礼であるという事を申しましたですね。
   どうぞ。